がらんどうの部屋 | ひさみん日和

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がらんどうの部屋

母が亡くなり早いもので
半年が経ちました

亡くなって一週間後に義兄の
市議会議員選挙の出陣式があり
そこから4月初旬まで選挙で走り続け

終わったと思ったら
母の手続きやら仕事も忙しくなり
中元の繁忙期も経て
今やっと落ち着きつつあります

中元の発送と同時進行で
母の住まいも片づけました

私一人では到底無理で
姉と二人で何日もかかって
最後は夫が大きいものを全て
運び出してくれました

2021年に市営住宅の5階から
1階へみんなで荷物を運び引っ越し
あれから3年あまりでまさか
母が居なくなってしまうとは
思ってもみませんでした

思えば、あの引っ越しから
母はなにか具合が悪くなったのでした

今更ですが・・・高齢者にとっての引っ越しが
どれほど心の負担になるのか
思い知らされた気がしています

姉と荷物を整理する中で出てきた思い出の数々を
ここに残しておきたいと思います

3年前の引っ越し時にたくさん
処分した母ですが
捨てられなかったものは
母にとってよほど大切なものだったようです

私たちが子どものころ
遊んだブロック

孫ひ孫も母の家に行くと
これで遊んでいた

姉か私が使っていたと思われる
昔の色鉛筆

アルバムには貼っていない
家族写真がたくさん
小学生低学年頃の私

小学生高学年の私
珍しく父とのツーショット

父が生前、おそらく
亡くなる前に書いたと思われる
家の新築計画

 

父の履歴書や賞状の数々

全てにおいて優秀だった父は
母にとってきっと
自慢の夫だったのでしょう
何かにつけ、お父さんは・・と
よく話していた

 

旅行の思い出に買い集めたのか
こけしや置物多数

左の人形は姉と私それぞれ
家に持ち帰るよう何度も言われていたので
処分せず持ち帰ることに

昔々、母が着ていた水着
家族で海水浴へ行くと
必ずこれを着ていた
これは姪っ子が持ち帰り

母のお母さんが縫ったと思われる
大正時代の夏用の着物

母は着物をたくさん作っていたので
昭和の新しいものは私と姉、孫たちで分けて
古いものは古い着物を扱っている
知人に引き取ってもらった

子どものころ使っていた
思い出のある食器は
姉と分けたり寄付へ

カレーライスというとこのお皿だった

押し寿司を作ってくれた

私が子供のころ使っていた
トッポジージョのスプーン

母は編み物が趣味だったので
むか~しの編み物の本

そして、編みかけのセーターかな

ここ数年は思うように編めなくなり
だれか続きを編んでくれんかね
とも言っていた

昔は服も縫ってくれていた

足踏み式ミシン

鞆の方が引き取ってくださった

母のおばあちゃんの時代の鏡台
思い出がたくさんあるけど処分

出かける時に母がつけていた
SEIKOのゼンマイ仕掛けの古い時計

どんな古い時計も直してくれる
時計屋さんで(小田時計店さん)

部品を分解、全て洗浄してもらい
みごとに復活!

ベルトを交換し私の腕で
再び時を刻むことに

母の服で欲しいものは
それぞれが持ち帰ったものの
大半は処分となり

ここ数年、我が家で暮らす中で着ていたものは
余計に思い出が深く

悲しくなりすぎるので
全て処分することに

 

子どものころ
イベントを大事にする家族で
誰かの誕生日のたびに
誕生日会を家で行っていた

そのプログラムや
父や母に贈った手紙もすべて
とってあった
ほんとにたくさん

そして、父が亡くなり
母と姉と3人暮らしになり
始めた交換日記

毎日ではないけれど
それぞれの出来事や思いを綴ったり
喧嘩した翌日は謝ったり

いつしかやらなくなってしまったのだけど

ひとりになった母が時折
取り出しては読み返し
ひとりで綴ったページに
胸が締め付けられる

 

昭和61年9月14日

今日、整理していたらこんな懐かしい貴重な過去の生活を知ることができ、涙が出てどうしようもありませんでした。まだ幼さの残っているような二人の学生時代を思い出し、姉妹けんかをしては母さんを困らせたのだとつくづく思いだしました。この9年間、平凡なようでありながらも大変だったと思いました。進学、卒業、就職、結婚・・それぞれの道を歩み、結局、母さんはひとりぼっちになったのだと・・・これが人生ですネ。前進もあり、つまづきもあり、思い出してなぜかしら涙が出て懐かしくてたまりませんでした。あの日々をもう一度返して欲しい・・・
母さんは駄目ですね、こんな過去にすがっていては自分の幸せ見つけることできないものね。

 

平成5年3月29日

ふと懐かしくなって三人の過去の交換日記を読みました。昨日の出来事のようにあれもこれも思い出して胸が締め付けられるように、言い知れぬ淋しさで涙が出てしようがありませんでした。
二人とも妻となり母となり私も孫が六人になり、人生変わってきたけどでも変わっていないのはいつまでも私の子であり私が母さんであるということ。
今年で60歳になります。長いようで短い17年でした。

 

平成28年10月25日

月日が経つのもいつの間にか忘れ、娘たちの世話になること、嬉しいような淋しさを感じる今日この頃。一生懸命という言葉をふと忘れがちの日々、しっかりしなければと自分を心から戒めて何とも言い知れない淋しさを感じる毎日。お父さんに先立たれ、私なりに・・・と頑張りそのうらはらにとっても弱い自分を反省するばかり。4人のひ孫を目の当たりに接し、遠い雲を見ているような・・・・

 

思い出したように三度書かれた日記
母の心の淋しさが少しわかる

でも母はいつも言っていた

自分がその歳にならないとわからないことがいっぱいある、と

私もその歳にならないとわからないことがきっとたくさんあるのだろうな

母が居なくなって、母も一人の女性であり
一人の妻であり、母であったこと
強くも弱くて
明るくて寂しい人であったと

お母さんありがとう
今までありがとう

日記の最後に今度は私が綴りました

当時は交換日記も私はふざけてばかりだった
読み返すと恥ずかしい
今ならちゃんと伝えられる

 

令和6年7月1日

広島から福山へ越してきてから
20年間、お店を手伝ってくれてありがとう
最後まで私たちのそばにいてくれてありがとう
7人の孫と4人のひ孫を可愛がってくれてありがとう
いっぱいいっぱいありがとう

お母さんがいなくなって
とても淋しいよ
会いたい お母さん

お母さん

住宅を引き払う日
何にもなくなって
がらんどうになった部屋にいると
涙が出て止まらなくなった

母が亡くなって今まで
私は泣かなかった
泣く暇もなかったし
向き合うのが怖かったのかもしれない

この日初めて母が居なくなった淋しが
胸にこみあげてきた

キッチンの窓からは
我が家が見える
母はここからよくうちを見ていた

花が好きでベランダに
プランターを置いて花を育てていた

空は青く澄み渡り
沢山の雲が勢いよく
空に昇っていくのが見えた

初盆にとたくさんの
お花やお供えが届き

母のことを忘れずに
覚えてくれていることが
何よりも嬉しくありがたい

私もそんな母のような人に
なれるだろうか

いい色じゃね、と
冬に着てくれていた
カーディガンは
寝たきりになった時からずっとここ
ベッドの頭の上に掛けていた

今はここに仏壇を置いたよ
これだけはなんだかね
下ろせないでいる

 

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けんちゃんのいりこ屋店長・ひさみん(久光智子)
けんちゃんのいりこ屋店長・ひさみん(久光智子)

鞆の浦でいりこ屋を営んでいます。趣味は描く、綴る、歌う。特技は有り合わせで思い付き料理を作ること。
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